『挨拶』

今だから問う えっこれが学校―改訂アメリカ教育日記

いつの頃からか、大学までの通学路に交通整備員のような人が立つようになった。高尾駅からキャンパスまで20分の道のり。4〜5ヵ所にそろいの制服を着た人が立っている。寒い日も、暑い日も、雨の日もたっている。一日何千人もの学生が通る通学路。彼らは通る学生全員に声をかけてくれる。

高校生の頃、挨拶でほめられたことがある。高校は以外と外部の偉い人(他校の先生や教育委員会の人など)が来る。その人たちが訪問先をほめる言葉の中で一番多いのが「この学校は挨拶がすばらしい!」だった。

うちの高校は理系の男子校で体育会系の生徒が幅を利かせているむさ苦しいところだ。運動部に属する者は顧問の怖い先生方々から挨拶を叩き込まれているので「オッス!」とそこらじゅうで聞こえる。これが本当に挨拶なのだろうか?

野球部では先輩と廊下ですれ違うたびに「オッス!」。顧問の先生がグラウンドに出てくると号令がかかる。「きょ〜つけ〜!おはようございま〜す!!」と部員全員で腰を90度まげて挨拶をする。以前からこのような挨拶を疑問に感じていた。

日本の「挨拶」は礼儀作法の一つである。広辞苑にも「うけこたえ。応答。返事」とか「人にあったり別れたりするときに、儀礼的に取り交わす言葉」とある。以下、冒頭で紹介した本の一部から抜粋。

「アメリカでは、心を開いて、あなたを受け入れますという他人と付き合うための意思表示、つまり一種のコミュニケーションの手段なのである。したがって、見知らぬ人間に対しても、彼らは実によく挨拶する。」

「挨拶の『挨』は心を開くという意味、『拶』は受け容れるとおう意味である。『心を開いて、あなたを受け容れます』。このことができて、初めて『出会い』が生まれる。」

上記の書籍はアメリカの教育を見てきた作者が日本との相違点をあらわしたものである。挨拶一つとってみても、違うである。我々は儀式的なものとして行っているのに対し、アメリカの挨拶はコミュニケーションの手段なのである。

毎日毎日、通学路の警備員は学生に「おはようございます」「いってらしゃい」「さようなら」と声をかけ続ける。でも、挨拶を返す人はほとんどいない。いやになるだろう。こちらが挨拶をしているのに返事が返ってこないのは。

実は、理系の男子校は大体二つの人種に分かれる。体育会系とオタク系。前述の通り、体育会系の挨拶はやたらと声がでかくてお偉いさんにはよく聞こえる。しかし、大半の生徒は担任の先生とすれ違っても挨拶をしない。授業開始前に号令をかけても、ただ形だけ。号令をかけるのはクラス唯一の体育会系だった自分の仕事だったが、これまたむなしい仕事だ。肝心の先生も号令なんて聞いてない。生徒もただ立ちあがり、頭をさげるだけ。

挨拶はやはり儀式的なものなのか?しかし、「おはよう!」と声をかけて「おはよう!」という元気のいい返事が帰ってくると、お互いの表情がやわらぐ。今日も一日がんばるぞ!っという気持ちになる。だから、毎朝挨拶をしてくれる警備員の人たちに必ず「おはようございます」と挨拶を返すように心がけている。